フジタ流「牛乳を注ぐ女」の楽しみ方 |
● なぜか、「安心感」みたいなものに包まれませんか? ◎ 女性にしては、ガッシリとした体躯で描かれ、頼もしい印象がある気がします。壷を支える腕には筋肉のスジも見えます。 ◎ フェルメールの視点が、“彼女”の胸から腹部あたりに設定されているため、顔を見ようとすると、いくぶん仰ぎ見るようなニュアンスを含むように思います。
● “彼女”は、どんな人となりだと思いますか? ◎ 上記のように、一つにはたくましい女性という印象を私は受けます。 ◎ その一方、“彼女”は非常にていねいにミルクをポットに注いでいます。その様子から、きめ細やかなで繊細な側面も見えてこないでしょうか? ◎ ミルクをポットに注ぐという単純な仕事ですが、“彼女”はイヤイヤやっているようには見えません。真面目で誠実、心やさしい人柄がしのばれるようです。 ◎ つまり、“彼女”の描かれ方は、力強さとやさしさ、大らかさと繊細さといった、相反する要素を違和感なく渾然一体に含みこんでいることになりそうに思います。 ◎ 本作の印象が、意外に奥深いものになっているのは、そうした背景事由によるのではないでしょうか。
● “彼女”の服装に注目! ◎ オレンジぽい黄色の上着、青いエプロン、赤いスカートです。 ◎ 「赤い服に青い上着」の組み合わせは「聖母マリア」を表わす決まりがありますが、ここでもそうなのでしょうか。 ◎ オレンジと青の組み合わせは、フェルメールの母国オランダを象徴する色です。これまた、その意味で描かれているのでしょうか。
● 部屋の事物に注目! ◎ 「ミルク」には「豊かさ」の意味がありますが……。 ◎ 「籠」にも「豊かさ」の意味がありますが……。 ◎ 「パン」は「イエスの体」の意味がありますが……。 ◎ 奥の壁には何本かの釘と、釘を抜いた跡が描かれています。 ◎ 釘の跡と釘を線で結ぶと、一つのかたちになっているように見える気もします。
● 横のガラス窓に“異変”はありませんか? ◎ 窓枠の上から二段目、一番奥のマスをよく見てください。そこだけ、ガラスの一部が割れています。なぜでしょうか? |
<本 論> ●印象を中心に見ると 私がこの絵と初めて出会ったのは、もう20年も前になります。スペインからの帰り、アムステルダムで飛行機を乗り継ごうとしたら、日本への便が4時間遅れになっていて、「それだったら!」と急遽、アムステルダム国立美術館まで出かけて行ったのが初見でした。
『牛乳を注ぐ女』は、レンブラントの『夜警』のように特別な展示になっているわけでなし、ごくふつうに美術館の壁に掛かっていました。あまりの何気なさに、ちょっと不満な思いがするほどでしたが、そのほうがフェルメールらしくていい気もしました。当時は、いまほどフェルメール人気が高騰しておらず、人だかりができるといったこともなく、ゆっくりと絵と向き合うことができました。ついに出会えたという感激は、ひとしおのものがありましたが、同時に「あれ、こんなものだったの?」と絵の大きさに意外の感も抱きました。画集から想像していたより小さかったのです。思ったより小さかったということでは、あの『モナリザ』もそうでした。
初めての対面ということで、けっこう時間をかけて眺めていました。“彼女”は、茶褐色の額縁のなかで、一心に牛乳をポットに注いでいました。見るからに誠実に自分の仕事をこなしている様子に、「健気だなぁ」と、そこはかとなく共感を抱きました。そのうち、だんだんと、なぜもっと大きな絵だとイメージしていたか、その理由が見えてくる気がしました。
『牛乳を注ぐ女』を前にすると、どこからかもたらされる安心感というか安堵感に包まれるという感想をよく聞きます。私も同感です。大きな慈愛のようなものとでもいいますか、一人のメイドが台所仕事をしているだけにもかかわらず、“彼女”には母のような存在感が感じられる気がします。もっといえば、母の胎内にいるかの如き落ち着いた心持ちになれ、“彼女”に何もかもを委ね、安心しきれる気持ちにさえなってくるのです。“彼女”は大らかに私たちを受容し、包み込んでくれる雰囲気があるように思います。
では、そんな安心感や安堵感を抱くのは、なぜでしょうか? 改めて見ると、“彼女”は女性にしてはガッシリとした体躯をしています。肩から胸にかけての肉付きは豊かで、壷を支える左腕にはうっすらと筋肉のスジも見えます。なかなか力強いです。こうした“彼女”の描かれ方が、見る者にある種の大きさを感じさせるように思います。
また、フェルメールの視線の高さは、“彼女”の胸から腹部あたりに設定されているため、“彼女”の顔を見ようとすると、わずかながら仰ぎ見るニュアンスを含むことになります。その結果、さらに“彼女”の大きさ感や力強さ感が無意識的に強調され、私たちは“彼女”に、より頼もしい印象を抱く結果につながっているように思われます。
そうしたフェルメールの巧みな演出によって、私たちは知らず知らずのうちにも、“彼女”に大いなる存在といった印象を抱き、そのため、画集などを見ていると、ついつい実物より大きく想像してしまうのではないでしょうか。
フェルメールの巧みな描き方によって、見る者は“彼女”に一種の大きさ、たくましさ、頼もしさといったニュアンスを感じるようになっているかと思うといいましたが、本作と“彼女”に対して抱くイメージは、大きさ、たくましさ、頼もしさといった言葉で表わされるものだけではない気がします。そんな単純な印象にとどまらない、もっと奥深いものがあるように思われます。
見たとおり、“彼女”は牛乳をポットに注ぐ仕事を行なっています。いわば何でもない仕事ですが、“彼女”は、決していっぺんにドバッと注ぐのではなく、少しずつ、細い糸のように、途切れなく牛乳を注いでいます。神経を使った繊細な作業ぶりで、実にていねいなやり方です。ごく細い牛乳のひと筋が、無言のうちにもそのことを物語っています。それが、一見、力強く見えた“彼女”の別の一面を私たちに明かしてくれます。
力強い人間は、ともすれば雑駁な性格の持ち主という連想が浮かびがちですが、“彼女”の場合はそうではないことが、この仕事ぶりをとおしてうかがえます。すなわち、注意深く牛乳を注ぐ細やかさも持ち合わせていて、決してウドの大木ではないのです。
また、“彼女”はこの平凡きわまる仕事をイヤイヤやっているようにも見えません。誠実に自らのなすべきことを淡々と行なっているふうです。そのことから、真面目で誠実、そして心やさしい“彼女”の性格が、そこはかとなく伝わってきます。
つまり、力強さと繊細さを兼ね備え、かつ心やさしい人物――それが“彼女”の素顔であり、“彼女”と向き合うとき、私たちははっきりと意識しないまでも、直感的に“彼女”のそうした人となりを感じ取り、その人柄に穏やかな共感を抱いているのではないでしょうか。それが、ひとつの言葉だけでは言い表わせない、精妙で懐の深い印象につながっているように思われます。
そして、こうした印象を生み出す鍵となっているのは、ごくごく細く流れ続ける牛乳の描写です。面積的には、絵全体からすると、ほんのわずかなものにすぎませんが、このひと筋の牛乳が描かれたことによって、本作は異彩を放つ表現性を獲得しているように考えます。
『牛乳を注ぐ女』は、したがって、一見何でもない平凡なたたずまいの絵に見えるのに、数々の要因が一つのビジョンのなかで複雑に絡まり合い、複合して視印象をつくっている作品ということになります。存外に味わいが深いのは、そのせいではないかと。また、その数々の要因は、力強さとやさしさ、大らかさと繊細さといった、いわば相反し、対極にある概念です。それらを違和感なく渾然一体に昇華させてしまっているのですから、実はすごい離れ業を成していることにもなります。
さらにいえば、それらは決して説明的に成されているのでもありません。半ば無意識の領域で、鑑賞者にごく自然に感じられるように描かれているだけで、決して押し付けがましくありません。うるさくないのです。そこがフェルメールらしいところであり、それだけかえって高度な絵画表現であるといわなければならない気がします。まさに、“羊の皮をかぶった狼”といったところでしょうか。
●イコノロジー的解釈を試みる ところで、絵画鑑賞には「意味」を読み取ろうとするものもあります。「イコノロジー」と呼ばれるものが、その一つです。
イコノロジーとは図像解釈学といわれるもので、絵のなかに描かれた、何らかの意味を持つアイテムによって、その絵が伝えようとするメッセージを読み取り、さらにはその背景となっている文化性や歴史性を探ろうとするものです。たとえば、「赤い服の上に青い上着を着た女性」は「聖母マリア」を表わし、「赤」は「愛」を、「青」は「信仰」を意味する、といったような具合です(注:ただし、このレベルの読み解きは、厳密には、イコノグラフィー(図像学)といわれるものとなります。イコノロジーは、イコノグラフィーよりさらに深く、幅広く読もうとするものです。ここでは煩雑なので、「イコノロジー」で通します)。イコノロジー的観点から絵を仔細に眺めると、思わぬ発見をすることがあります。
さて、『牛乳を注ぐ女』には、そもそもイコノロジー的意味合いがそなわっているのでしょうか。専門の美術史家の多くは、否定的な見解を持っています。『フェルメール論』の大著を書かれた小林頼子さんも、本作にはイコノロジー的な含意はほとんどないと述べておられます(最近、少し意見を変えておられるようです)。その一方、少ないながらも、イコノロジー的なメッセージを読み取ることができるという専門家もいます。いったい、どちらが正しいのでしょうか?
イコノロジー的観点から本作を見ると、それなりにいわくありげなものがいろいろと描かれています。まず、“彼女”の服装が気になります。黄色い上着にスカートが赤、腰のところで巻いたエプロンが青です。机の上にも気になるものが乗っています。牛乳を注いでいるミルクポットのほか、籠に入ったパン、籠の外に置かれたパン、壷みたいなものもあります。また、テーブルクロスが、半ばずり落ちそうに引っかかっています。
場所は、例によって向かって左側に窓のある小さな部屋。窓からはそれほど強くない光が射し込み、何となく部屋に明るさを供給しています。窓に続く壁には四角い籠がかけられてあり、正面奥は一面の古い白壁です。何かの金属器のほか、何本か釘が打ち付けられているのも見えます。床には、何やら四角い箱みたいのものが置かれていますが、これは足ごたつです。
それに、そもそも絵の鍵となっている牛乳からして、怪しいといえば怪しく見えてきます。フェルメールは、これらのアイテムに何らかの意味を持たせたのでしょうか。もし意味があるとすれば、どういう意味でしょうか?
イコノロジー的解読をしようとすると、まず“彼女”が一心に注いでいる牛乳に何らかの意味を求めたくなります。そこで、牛乳は何を表わすのかと調べてみると、豊かな糧の象徴として「豊かさ」の意味があることがわかります。
ここで、ちょっとした話があります。本作の英文タイトルは『The Kitchen Maid』とか『The Milk Maid』と表記されます。『牛乳を注ぐ女』という邦題は、そこから定着したものと思われます。けれども、ほんとうにそれでいいのでしょうか?
私たち日本人は、「milk」と聞くと反射的に「牛乳」だと思ってしまいますが、「milk」は何も「牛乳」には限りません。英語では、母親が赤ん坊にあげる母乳も「milk」だし、樹木から出る白い液体だって「milk」です。つまり、「cow's milk」(牛の乳)とは、ひと言もいっていないのです。
「豊かさ」の意味のルーツをたどると、「生まれたばかりの赤ん坊が最初に口にする食べ物」ということになっています。ということは、もしミルクに「豊かさ」の寓意を見出そうとすると、「milk」はナント「母乳」と見たほうが適切ということになってしまいます。『牛乳を注ぐ女』という邦題も、『母乳を注ぐ女』に改めねばならないことに! 『母乳を注ぐ女』とは、ずいぶん妙ちくりんなニュアンスです。題名を聞いただけでは、あらぬ絵柄を想像する人も出てくるかもしれません(笑)。
でもまあ、常識的に考えて、母乳を壷からポットへ注ぐこともないでしょうし(あるかもしれませんが)、オランダといえば牛の多い国でもありますから、やはりここは、牛乳で妥当だろうとは思います。が、もし、あくまでも厳密を期すというのであれば、『ミルクを注ぐ女』ぐらいにしておいたほうが、より適切かもしれません。「ミルク」なら、母乳でも牛乳でも問題ありませんから。
ほかのものに目を移してみましょう。横の壁には籠が掛けられています。籠には、樹木の実りである果物を入れるのに使われることから、「豊饒」や「豊富」の意味合いがあります。牛乳に続いて、またもや「豊かさ」ですね。
机の上のものも気になります。籠に入ったパン、籠に入っていないパン、壷のような陶器などがあります。パンが籠の内と外とに、わざわざ二通りに描かれています。図像学的には、実はそれぞれに意味があります。パンは、キリスト教においては「イエスの体」を表わすものとされています。それが籠に入ると、イエスが一つのパンを1000倍に増やして人々に分け与えたという「聖なる奇跡」を示しているのだそうです。したがって、籠の内外のパンは、イエスとその奇跡を暗示しているとも受け取れます。
壷のほうは、ちょっと複雑で、何が入っているかによって意味が変わってきたりします。また、壷そのものに注目した場合、それが壊れていなければ「知性を持った心」とか「純潔」の意味で使われることがあります。逆に壊れていれば、「知性なき心」や「処女喪失」といった意味合いになります。本作の壷は、どうやら壊れていないようですから、前者の意味ととることもできそうです。
奥の壁には何かの金属器が掛かっていますが、これがいま一つ何かよくわかりません。専門家でも、「薬缶」だと説明する人もいれば、「バケツ」だという人もいます。また、銅製だという人もいれば、真鍮だという人もいます。はっきりしないので、ここでは触れないでおきます。
壁には、また、実物と見紛うばかりの見事な表現の釘も打ち付けられています。たかが釘なのに、けっこう入念に描かれている感じがして、私はどうも気になってしかたないのですが、キリスト教では、3本または5本の釘は、「イエスの十字架刑」を意味することになっています。では、ここでは何本描かれているかと数えてみると、奥の壁に2本、横の壁に籠をぶら下げている1本と、合計まさしく3本なのです。
しかも、ほんとうなら金属器を吊るしているもう1本があるはずなのに、わざわざ手前の籠で釘を隠しているフシがあるようにも思えます。そこから、あえて3本だけが見えるようにした画家の意図が匂わないでもありません(↓の図の赤丸部分)。 さらに釘に関連して、釘の跡の穴にも注目しておきたいと思います。奥の壁にはいくつか釘を抜いたあとの穴らしきものが描かれています(図の黄丸部分)。釘の跡なのか、壁のしみなのか、必ずしもよく見分けがつかないのですが、“疑わしき”をピックアップして、釘とともに線で結んでみるとどうなるでしょうか。何となく、十字のかたちを描いているように見えないでしょうか。そうだとすると、十字架ですね。
イエスの磔刑を意味する3本の釘に、あたかも十字架を思わせる釘と釘の跡(らしきもの)のプレイスメント。はたして、これを「偶然」のひと言で片づけていいのかどうか戸惑ってしまいます。釘と釘の跡を十字架で表わすと、まるで“彼女”は聖母マリアのようにも見えてくるから不思議です。もっとも、かくいう私自身、そこまでいくのは、いささか考えすぎかとも思うのですが、みなさんは、どう思われるでしょうか?
●“彼女”自身について見る “彼女”自身についても見ておきましょう。黄色い上着に赤いスカート、腰には青いエプロンを巻いているといったいでたちです。黄色の上着をちょっと横に置いておくと、赤のスカートに青いエプロンの組み合わせになります。これ、「どこかで聞いたな?」と思った方は記憶力抜群です。すでにちょっと触れていました。赤い服に、青い上着を着た女性は「聖母マリア」を意味するという約束事がありました。赤は「愛」を、青は「信仰」を表わします。
ということは、“彼女”にはやっぱり聖母マリアの意味合いも込められている可能性が視野に入ってくるかもしれません。この観点に立つと、半ばいたずらで描いた十字架が、微妙に際立ってきますね。牛乳を注いでいる姿が、なぜか聖母子像をも彷彿とさせてくるように思ってしまうのも、画家のひそかな意図があればこそ、かもしれません。
しかし、“彼女”が聖母マリアを暗示していると読み取ろうとすると、横へ置いておいた黄色い上着が壁となって立ちはだかります。聖母マリアのシンボルに黄色い上着はありません。
では、黄色にはどんな意味があるのか調べてみると、かなり多様です。まず「無節操」とか「臆病」といった意味で使われることがありますが、どうも本作には当てはまらない感じです。ほかには、と見ると、「愛」あるいは「豊饒」を表わすこともあることがわかりました。これなら、ピッタリ、違和感ないように思いますが、いかがでしょうか。
そして、この見方を採ると、またしても「豊かさ」にかかわる図像ということになり、牛乳、籠に続いて、三つ目になります。「豊かさ」が、ひじょうに強調されていることになります。
ところで、黄色い上着は、この絵において小さからぬ位置づけがあるように私には感じられます。いや、小さからぬ位置づけなんて仰々しい言い方をしてしまいましたが、要するに、よく目立つのです。エプロンやテーブルクロスの青と組み合わせとしても強い印象をつくっている気がします。
この黄色といっても、ちょっと濃い、山吹色っぽい黄色と青の組み合わせ。実は、フェルメールは本作に限らず、多くの作品で表現しています。とくに、『デルフト眺望』と『真珠の耳飾りの女』に、その傾向が顕著に現われていますが、見ようによっては、『レースを編む女』、『絵画芸術』、『恋文』、『女と召使』、『地理学者』などにも活かされているように思われます。フェルメールは、この色の組み合わせがよほど好きだったのでしょうか? それとも、ここにも何かの意味が込められているのでしょうか?
●色の組み合わせを考える 突然、話は変わりますが、オランダも鉄道がよく発達した国です。
この電車は、ハーグで撮影した、オランダ国鉄のものです。車両のカラーリングは、山吹色っぽい黄色と青の組み合わせです。まさに『牛乳を注ぐ女』をはじめとした、フェルメールの作品でお馴染みのアンサンブルです。オランダ国鉄の車両は、すべてこのカラーリングで統一されています。日本の電車がいろいろなカラーリングになっているのとは対照的です。
フェルメールの絵によく現われる色遣いとオランダ国鉄の統一色が同じ――これも「偶然」のひと言で片付けていいのでしょうか? 私なんぞは、ついつい、何らかの関連、何らかの意味を見出したくなります。
フェルメールの生きた時代、オランダは長年にわたるスペインからの独立戦争を戦い抜いたところでした。ついに勝ち取った独立! きっと、そのころのオランダは、国中が沸き立っていたことでしょう。戦争時、独立軍を率いたのは、オラニエ家が世襲した総督でした。当時は国王ではなく、あくまでも諸侯を代表するという位置づけでした。一時期は、オラニエ家の権力が強大化しすぎるのが警戒され、総督を置かない時代もありましたが、再びオラニエ家の当主が総督を務め、戦争を戦い続けました。そして、結局、その家筋が今日のオランダ王族(オラニエ=ナッソウ家)となっています。
このオラニエ家、英語では「オレンジ家」となります。あの果物のオレンジです。そこでいつのころからか、オレンジ色がオラニエ家を表わす色になり、ついにはロイヤルカラーとなりました。オランダのお祭りでは、オレンジ色の服を着た人々が大勢繰り出すのはそのためです。また、サッカーやオリンピックのオランダ代表チームのユニフォームがオレンジ色なのも、このロイヤルカラーに由来しています。
それから、オランダ国旗の色についてですが、現在は「赤・青・白」の3色となっていますが、かつては「オレンジ・青・白」の3色でした(遠くからは、オレンジより赤のほうが目立つので、そのように変えられました)。オレンジと青はオラニエ家総督の侍者たちの制服の色で、皇太子の紋章の色でもありました。そこから、オレンジと青の組み合わせは、やはりオラニエ家を讃える意味合いを持つものとなりました。
したがって、オランダ国鉄の統一カラーリングも、ただ単にデザイン的にそう決められたのではなく、ロイヤルカラーを表わしているのです。ここまでずっと黄色あるいは山吹色と記してきましたが、ですから、本来はオレンジ色というべきだったのです。
となると、フェルメール作品で頻繁に現われる同じカラーリングについても、同様の意味合いを汲み取ってはいけないでしょうか。世界中でほとんど誰も指摘していませんが、私は、フェルメールのこの色遣いのなかには、オラニエ家や故国オランダへの思いが込められているように思えてしかたありません。“彼女”が聖母マリアの色に加えて、オレンジ色の上着を着ているのも、そうした必然があってのことかもと考えるのですが、いかがでしょうか。
フェルメールが色彩を通じて、故国を讃えている可能性を補強する事実が、もう一つあります。フェルメールは生涯のほとんどを、生まれ育ったデルフトで過ごしています。デルフトは、アムステルダムやハーグほど大きな都市ではありませんが、オランダにおいては一種、特別な意味合いの街となっています。それは、ほかならぬオラニエ家の墓所がデルフトにあるからです。
つまりデルフトは、故国建国の雄、オラニエ家の代々の総督が眠る街であり、オランダの歴史を語るうえで欠かせない街なのです。徳川幕府にとっての日光みたいなものでしょうか。そんなデルフトをふるさととしたフェルメール。彼が愛郷心に富んだ人間であったと考えるのは、ごく自然ではないでしょうか。実際、ここでは詳しくは触れませんが、『デルフト眺望』の描き方などに、その証左が現われていると私は考えています。
オラニエ家を讃えるオレンジと青。それは、フェルメールの絵によく出てくる組み合わせ。そして、フェルメールが生まれ育ったデルフトこそ、オラニエ家の墓所がある聖なる街。出来すぎなほど、見事に一本の糸で結ばれます。面白いじゃありませんか。
●割れたガラス 多くの専門家のあいだでは、意味はほとんどないとされがちな『牛乳を注ぐ女』ですが、ここまでに見てきたように、その気になれば、相当いろいろな意味を見出すことができそうに思います。現時点では、私にはまだよくわからない、床に置かれた「足ごたつ」や、奥の壁の下側に描かれているデルフト焼きと見える「タイル」などにも、何かの意味が込められている可能性があるかもしれません。例の「バケツ」か「薬缶」かよくわからない銅あるいは真鍮製の用具も、いかにもいわくありげです。
あるいは、非常にていねいに観察しないと気が付かないのですが、左側の窓。上から二段目の一番奥のマスだけ、ガラスの一部が欠けています。そして、それに伴って、欠けたガラスのところだけ光が強く入ってきています。これに言及している専門家も、これまでほとんど見たことがありませんが(見逃しているのか?)、この部分のガラスだけわざわざ欠けさせて描いてあるのは、偶然ではありえず、むしろ何かの意味があると考えたほうが自然に思えるほどです。
ちなみにガラスは透き通っていることから、「汚れのない心」とか「純潔」、「超俗」といった意味があるとされます。割れていなければ「処女懐胎」のシンボルにもなります。ところが、割れたガラスになると、「短命な美」や「はかなさ」、「壊れやすさ」といった意味に変わります。これが本作において、いったい、どのような位置づけになるのか。フェルメールは、どういう意図でこの一枚だけ割れたガラスとして描いたのか。謎が残ります。
一見、何でもないシーンに見える『牛乳を注ぐ女』ですが、このように、はっきりとした意味を汲み取れないものを含めて、相当多くの意味が込められている可能性が見えてきたといってよいかと思います。事実、本作と同時期に描かれた他のフェルメール作品は、意味が含まされているケースがほとんどです。その流れからしても、本作には何かの意味が込められていると見たほうがいいのではないか、というのが(あくまで)私の意見です。
●絵の解釈 では、絵全体では何を物語っているのでしょうか。いわゆる解釈の問題です。意味があると考える専門家のあいだでは、まず、これは、女性はある種の仕事ができるのが大切なのだという、一種の女性の規範、あり方を説いているとする解釈があります。
当時のオランダでは、「女性のすべきこと」はかなりはっきりと決められていました。たとえば、針仕事や料理、掃除、糸つむぎなどです。それらは女性として当然そなえるべき資質、教養として考えられ、“やれて一人前”でした。逆にいえば、料理や針仕事ができなければ、女性としては不完全だと見なされたわけです。
そこで、そうしたものを奨励する目的で絵が描かれるようになりました。女性一人が何かの仕事をしている絵です。女性は常に針仕事か料理か掃除など決まった作業をしており、やはり、「女性のすべきこと」を無言のうちに奨励しています。そういう絵のジャンルが確立していたといっても過言ではないほどで、本作もそれに類するものという解釈です。
しかし、この解釈で微妙に引っかかるのは、女性の規範や教養を奨励する絵の場合、描かれる女性はそれにふさわしい社会的地位にある者であるのが常だという点です。その家の主婦あるいは娘といった、いわゆる“上流婦女子”です。フェルメール作品でも『レースを編む女』なんかがピッタリきます。それに対して本作では、ミルクメイドという使用人ですから、社会的地位は低いことになります。本作同様、使用人が主題として描かれた絵はけっこうありましたが、それらの多くは、性的にふしだらであったり、怠惰であったりと、いわば“悪しき例”として引かれています(ただし、“よき例”として使用人が描かれた絵がまったくなかったわけでもない)。
また、当時のオランダで女性に求められた資質には、先ほど述べたように針仕事、料理、掃除、糸つむぎなど、たしか6種類ほどがあったように思いますが、本作において“彼女”がしている作業がそれに該当するのかどうかも微妙です。牛乳をポットに注いでいる仕事です。これが「料理」といえるのかどうか。たしかに何かをつくっているようであり、そう考えれば料理ともとれそうですが、他方、これは料理ではなく「給仕」だという見方もありえそうです。そうなると、上流婦女子がするべきことからはかけ離れてしまい、女性の資質や教養を示したものとは到底いえなくなってしまいます。
そのことから、私は、本作を「女性がそなえるべき資質や教養を説く教訓画」と見る意見には必ずしも賛同していません。“彼女”がしている作業は、「料理」というよりもやはり「給仕」で、サーブしている最中と見るほうが自然に思えるからです(私には、ですが)。
それに対して、教訓画は教訓画でも、少し違った意味に解釈する説もあります。それは、「勤労の美徳を説く教訓画」と見る見解です。当時のオランダでメイドが主役となった絵は、その多くで“悪しき例”としてメイドが題材にされていると述べ、それに続く( )書きで、メイドが“良き例”として描かれているケースもないではないと書きました。その“良き例”の多くが、勤労の美徳の教訓画です。
この見方なら、主人公がメイドであっても違和感なく解釈することができます。また、立場の違いを際立たせるためか、メイドが大きく描かれた背後に小さくその家の主婦が描かれている場合もあります。つまり、メイドの仕事ぶりをチェックしているわけで、「いつでも見られているのだよ」ということのようです。『牛乳を注ぐ女』も、そんな勤労の美徳を説く作品だとする解釈は、女性の教養を説く教訓画と見る解釈よりは受け入れやすい気がします。
とはいえ、個人的思い入れのせいかもしれませんが、それだけと見るのも、どうも物足りないというか、もったいないというか、不十分な気がしてなりません。勤労の美徳を説いているとされる、ほかの絵に比べると、日常的な光景であるにもかかわらず、いくぶん非日常の雰囲気が漂っていて、“彼女”は下々の者というよりむしろ、神々しいムードさえ感じられるように思うからです。哲学者のカントは、かつて「崇高」という概念を提示しましたが、まさに“彼女”には崇高ささえもがそなわっているように私には思えるのですが、どうでしょうか。
●宗教的ニュアンス そんなニュアンスを汲み取るものに、宗教性を見出す解釈があります。それによると、やはりパンや牛乳にキリスト教の意味合いを読み取れるので、本作は日常風景を描いただけではなく、宗教的な性格も含んでいるとします。そのため、“彼女”もただの使用人然とはしておらず、どこか聖人に通じるたたずまいになっているというわけです。
『牛乳を注ぐ女』に宗教性を認める見解は、その度合いや内容がどうあれ、必ずしも否定できないのではないか、と私も思います。服の色、釘、釘の跡、それにあの一部だけ割れた窓にも、宗教的な寓意を読み取ろうとすれば可能な気がします。宗教的なテーマがメインかどうかは別にして、多少なりとも宗教的ニュアンスが含まれている可能性は、完全否定することはできないと思うのですがいかがでしょうか。
ほかにも傍証があるように思います。フェルメールは、画業人生のスタート時には、『マリアとマルタの家のキリスト』のように、はっきりとした宗教画を描いていました。ところが、その後、何らかの理由によって、宗教性が薄れていき、後年はもっぱら風俗画を描くようになっています。つまり、フェルメールの作品傾向は、宗教画から風俗画への移行というベクトルを示していることになります。
その移行は、ある時期までは宗教画で、ある時期からは風俗画と、はっきりと区分できるものでは必ずしもなかったように私は考えています。宗教画から風俗画へと移りゆく過程の時期においては、宗教画的性格と風俗画的性格が入り混じった中間的な絵を描いていたように思うのです。
中間的な絵の例としては、『取り持ち女』が挙げられます。女衒の家で男が女を買うシーンを描いていますが、道徳的な教訓を伝えるとともに、キリスト教の放蕩息子の逸話のテーマもオーバーラップしているのでは、といわれています。この『取り持ち女』が描かれたのが、1656年と推定されていて、『牛乳を注ぐ女』が1658〜59年ごろと見られています。そして、1660年代に入ると、フェルメールは完全な風俗画への移行を終了しますので、『牛乳を注ぐ女』は、ぎりぎり“中間移行期”の作品と考えても矛盾はないと思われるのです。
そうした可能性を踏まえつつ、では、私自身は『牛乳を注ぐ女』をどう解釈するかに入っていくとしましょう。頭のなかを整理するため、まず、イコノロジー的な要素をピックアップしてみたいと思います。 ◎「豊かさ」の意味を含む事物が複数描きひそまされている ◎“彼女”の服に、聖母マリアの意味合いを読み取れる可能性がある ◎“彼女”の服に、オラニエ家あるいはオランダを讃える意味合いを読み取れる可能性がある ◎釘や釘の跡にイエスの磔刑の意味合いを読み取れる可能性がある ◎パンにイエスとその奇跡の意味合いを読み取れる可能性がある などでしょうか。 それから、フェルメールの描き方を通して、画家の意図にも迫ってみたいと思います。 ◎“彼女”のたたずまいには、崇高といってもいいような一種の風格が感じられる すでに述べたように、フェルメールはさりげない工夫によって、“彼女”に印象上の大きさ、風格を与えているように思います。そこが、メイドを主人公にした他の絵との最大の相違点です。何らかの意図がなければ、こういう描き方はしないと考えられます。壷から牛乳を注ぐという家事作業をする場合、ふつう、“彼女”のような姿勢にはならない、それからするとやはり、画家はメイドを必要以上に優美にモニュメンタルに見せようとしていると指摘する人もいます。同感です。 ◎窓の一部を欠けさせたのも偶然ではない(?) 左の窓の一番奥、二段目のマスだけ、一部ガラスが割れて描かれている謎についても考えてみたいと思います。イコノロジー的な意味合いが、まず気になりますが、先に見たように、どうもしっくりとは解釈できそうにありません。そこで、別の意図を考えると、「なぜ、この場所なのか?」を問いたくなります。窓には18以上のマスを見ることができます。しかし、フェルメールは、ほかのどこでもなく、この場所のマスを欠けさせました。
窓の桟には、ガラスが割れていることによって、一部だけ太陽の光が強く入ってきているさまが描かれています。そして、その方向を延長させると、ちょうど“彼女”の額あたりに到達します。つまり、“彼女”の頭部に、いわば、スポットライトを当てる働きをしているわけで、一つには、フェルメールの意図はそこにあったのでは、という気がしてきます。
頭に光が射したり、頭の上に光の輪が浮かんで描かれるのは、伝統的に、その人物が特別な人間であることを示します。イエスや聖母マリア、聖人などですね。そして、聖なる光が射してくる場合は、必ず左側からという約束事があります。
この光も、まさに左側からの光です(もっとも、本作に限らず、フェルメール作品の多くで光は常に左側から入ってきていますが)。それからすると、窓の一部を欠けさせたことによるスポットライトも、“彼女”が実は特別な人間であることを示そうとしているのかもしれません。ただ、描かれている“彼女”はメイドという地位の低い人間ですから、あからさまにそれをしたら、違和感が大きくなってしまいます。そこで、フェルメールはほとんど気づかれないぐらいに小さく窓の一部を割り、ほんのわずかな演出として描いたのでは、と考えると、大変うまく辻褄が合います。
また、一番奥のマスでなければならなかったのは、桟にそこだけ光が強く入ってきている様子を描く必要があったからではないでしょうか。つまり、上下位置は“彼女”の額との関係から、左右位置は描写上の必要性から、「二段目の一番奥」のマスとなったような気がします。
ということで、やはり描き方においても宗教性の意味合いがほの見えているように思います。ただし、何度も繰り返しますが、ここでつらつらと述べていることは、(当たり前ですが)私の独断的見解であり、一般的な見方では必ずしもありません。なので、あくまで参考としてお読みくだされば幸いです。
●本作のテーマは? 完全な宗教画とはいえないまでも、また、程度ははっきりしないまでも、『牛乳を注ぐ女』には宗教的性格が絡んではいるのは否定できないところと私には思えます。
とはいえ、宗教画はキリスト教の教えを明確に伝えるために描かれますが、本作の場合、必ずしもそうではないように見えます。絵の背景というか底流としてキリスト教的思想を潜ませてある感じを私は受けます。
では、前面に設定されているテーマは何でしょうか? 具体的なテーマはとくにないとする見方がけっこう有力な雰囲気ですが、私はほんとうにそうなんだろうかと、納得を留保してきました。これまで見てきたように、テーマがないにしては、いわくありげ過ぎるように思うからです。そこで、「テーマがある」という前提で考えてみると、一つには、繰り返し現われている「豊かさ」と受け取るのが妥当な気がします。ひねりも何もない解釈になってしまいますが(笑)。
「豊かさ」の意味合いを読み取れるアイテムは「牛乳」や「籠」や「黄色の上着」などですが、牛乳は、まさにいま“彼女”が注いでくれています。また、籠に(恐らくは)食べ物をいろいろと盛り付けるのも“彼女”でしょう。つまり、「豊かさ」を常に整え、提供してくれるのは、一家の使用人である“彼女”です。すなわち、社会的な地位はむしろ下層に身を置く人間が「豊かさ」をもたらしていることになります。
ここに、本作のユニークさがあるように私には思えます。当時、使用人が主役となった絵の多くでは、使用人は愚かな例として描かれるのが一般的だったのに、ここではまったく違う意味合いで描かれています。したがって、一見、ごくふつうの風俗画に見えるものの、仔細に検討していくと、『牛乳を注ぐ女』は実はただものではないことがわかってくるように思います。
“彼女”の服装には、聖母マリアと故国オランダの意味合いを読み取れる可能性もあるかもしれないと述べました。もし、そうだとすると、「豊かさ」には重層的な意味合いが込められていることにもなります。ご存じの通り、聖母マリアは原罪を免れた特別な聖人です。マリアはイエスをこの世に送り出し、(キリスト教を信じる)すべての人々に幸せをもたらす存在です。そんな、マリアが伝えてくれる愛に通づるイメージで、無垢で限りない「豊かさ」が与えられるといったメッセージが込められているのかもしれません。
●もう一つの概念 本作には、何となく「豊かさがもたらされる」という意味合いが込められているのではないか、というお話をしました。それに加えて、私はもう一つのキーワードを持ち出したくなります。それは「母なるもの」です。
すでに触れた通り、“彼女”の服装には聖母マリアの約束事が潜んでいます。赤い服に青い上着です。“彼女”は上半身に黄色い服をきていますが、下半身がちょうどこの約束事と一致します。また、あまり明示的ではないものの、壁の釘・釘の跡や窓ガラスの意図的な欠損などにキリスト教の含意を感じないでもありません。それらを勘案すると、はっきりと示すことはしないまでも、本作には何となく聖母マリアのニュアンスを読み取れるように考えられます。
マリアは、いうまでもなく、イエスの母です。と同時に、キリスト教を信じる者すべての母でもあります。そこに、「母なるもの」というイメージが潜在的に鑑賞者のなかに広がる気がします。
私たちは、“彼女”の描かれ方からも何がしかのものを受け取れるように思います。これまで“彼女”とばかり書いてきましたが、モデルはメイドのタンネケ・エフェルブールという女性ではないかといわれています。最初のほうで触れたように、フェルメールはタンネケを、メイドという自分より下位に位置する人物であるにもかかわらず、いささかモニュメンタルに、崇高さを感じさせる工夫を施して描いているフシがあります。
そのことから、ここでも明示的ではないものの、「大いなる女性」=「母なるもの」というイメージ連想が鑑賞者のなかで静かに自然に起こるように思います。というか、フェルメールは暗黙裡にそうした企てを込めていたと思うのは、考えすぎというものでしょうか。
それから、タンネケの、こんどは上半身の服装の色合いに、オランダの含意があるかもしれないともいいました。フェルメールは、オランダで生まれ、オランダで育ち、そしてオランダで死にました。つまり、オランダはフェルメールにとっての「母国」。ここにも、「母なるもの」の連想が働くのです。
このように、大して何も描かれていないようでありながら、「豊かさ」と「母なるもの」という概念が、実は、繰り返し、複数のアイテムを通じて私たちに伝えられているように見えます。それを整理すると、「母なるものが、私たちに豊かさをもたらしてくれる」というメッセージとして読み取ることができるのでは、というのが私の解釈です。そこには、キリスト教的ニュアンスや愛国的ニュアンスも混じっているように思います。
そして、フェルメールは、そうしたことを、あまり声高に叫ぶのではなく、ひそやかに、自然に語っているような気がするのです。 * 以上で私の『牛乳を注ぐ女』論(?)を終えたいと思います。長々と大変失礼いたしました。いかがだったでしょうか? 納得いく部分はありましたでしょうか? こんなに長くなるとは思っていなかったので、申し訳ありませんでしたが、少しでも鑑賞の楽しみや、刺激のもとになってくれていたら、と願います。 |